疑う心と信じる心

生き方

疑う心というものは、たいそうな大飯ぐらいです。

こつこつと積み上げてきた信じる心を、いともたやすく食べてしまいます。

大飯ぐらいなもので、ちょっと食べ始めると、あっというまに信じる心はたべつくされてしまうのです。

そこに残ったのは、パラパラとかけらになっておちている、信じる心の食べ残し。

食べ残しをあつめて、また少しづつ積み上げますが、それもなかなか大変な作業です。

信じる心がようやく積み上がってきた頃に、またまた、疑う心はむくむくと目を覚まします。

それは、ほんのちょっとのきっかけ。

相手を思う強い気持ちの場合もあります。

疑わしいものが、うっかりどこかに置いてあったなんてことや、怪しげなメッセージを通知したままのスマホが放置されていたとかいう場合も、ちょっとしたきっかけです。

疑いのない心であれば、相手を思う強い気持ちは、優しい心になります。

うっかり置きっ放しのものも、誰かにプレゼントされたんじゃ?なんて気持ちも起きません。

一度芽生えてしまった疑う心というものは、どれだけ信じる心が積み上がっていても。ほんのちょっとしたきっかけで、むくむくと目を覚ましてしまうのです。

疑う心がなければ、どうでもいい、他愛もない、ほんのちょっとしたきっかけです。
疑う心を持ってしまうと、そのきっかけで、大飯ぐらいの疑う心が目を覚まして、むしゃむしゃむしゃむしゃ信じる心を食べ尽します。

疑う心を寝かせたままにしておくためには、きっかけをなくせばよいのです。

きっかけをなくす2つの方向からのアプローチ

  • きっかけをつくらない
  • きっかけを気にしない

きっかけをつくらない方法

  • そもそもきっかけになることをしない
  • それが出来ない場合は完璧にかくす
  • それでも日常の中で、どうしても甘くなって、きっかけは現れるので、それは嘘をつき通す
    (嘘があまいと、それもきっかけになるのでご注意)

きっかけを気にしない方法

  • きっかけになりそうな事があったときには、相手をやさしい気持ちで見て、それが良い方向の事柄であると受け入れる
  • それでもダメな時は、疑わしく思っていることを自分でもやってみる
  • そうすると、さらに疑いの心は、間違いないものと確信されて、すでに疑いではなくなる
  • きっかけがあっても気にしなくなる

双方ともに、一つ目の方法だけで、すんなりといけばよいのですが、それはなかなか難しいこと。

どこまでやって、どこまで我慢して、どこまでお互いを受け入れるか。

双方のバランスで、双方の努力がうまく噛み合う”ちょうど良い落とし所”が見つかるといいのですが、見つからない場合は根本解決として、そもそもきっかけがなくなるように、かかわらなければ良いのです。

それで、関わらなくなるのが、夫婦ならば離婚。友達ならば絶好。親兄弟なら絶縁。双方が同じ方法を向けないならば、関わらない方がいいのです。どちらかが、どちらかの思いや行動を変えようとしても、そんな偉そうな事はできないのですから。

おのおのが、それぞれに自分できめて生きているのです。

疑う心と信じる心

どっちかだけでもダメなんです。相手をおもいやる心をもちながら、双方のいいバランスをさがしてあるきましょう。

一緒に歩いていきたい、という前提条件があるのであれば。

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